ニワトリのトコちゃん

冬のある日、14:44。

「トコがキツネに襲われたかもしれん」

買い物に出かけていた私のもとへショッキングな知らせが届いた。
夫からの電話に動揺しながらも、なんとか気持ちを奮い立たせて、私はハンドルを握りしめ、帰路を急いだ。

帰宅すると、夫は家の周りを探しているところだった。

「いた?」
「いない」

けたたましい鳴き声、バサバサという羽ばたき、急いで地面を蹴って走る足音。
家の中で用事をしていた夫が、今までに聞いたことのないような音に異変を感じ、すぐさま家の外へ出たもののトコの姿を見つけることができないでいる。

トコは賢いニワトリで、呼べば返事をしたし、こちらが呼ばない時でも語りかけるように鳴いていたから、いつだって気配を感じることができていた。
そしてトコは何より人が好きで、人のいる方へ近付いてくる。
近所の人でも、郵便屋さんでも、宅配便の人でも、生協の配達の人でも、お客さんが来ると寄って行って愛想を振りまいていた。
その日は蔵の修理のために大工さんが来ていて、トコはとりわけその大工さんが好きだった。
大工さんが来る日は走って寄って行って、作業を近くで見守っていた。
「邪魔をしてすみません」と離そうとしても、すぐに近付いてきて、大工さんも「いいよ、邪魔にならないし仲良しだから」と、とても可愛がってくれていた。


数日前に降り積もった固い雪の上に、直径4~5cmくらいの獣の足跡があるのを夫が教えてくれた。

「多分キツネやと思う。僕が外に出た時、長いしっぽの動物が裏へ逃げて行ったから」

しかしスマホで調べてみると、どうやら足跡は大きさや形からしてイタチらしかった。
そして口に何かを咥えている様子ではなかったということから、飛び出してきた夫の気配に驚いて裏山の方へ逃げて行ったのだろう。
トコはどこかで傷ついて動けないでいるのだろうか。

「トコ―!トコ―!」

私は愛しい家族の名前を呼びながら、家の周りを探し回った。
逃げて行ったと思われる裏山も方角も探した。
鹿やイノシシなどの足跡が入り乱れる裏山へ、イタチの足跡だけを追って登って行った。
既に夫が探したという場所も、お隣の家も探しに行った。

トコは隣に住むおっちゃんが好きで、よくおっちゃんの畑にこっそり入っていって、畑仕事をするおっちゃんの足元にまとわりついていた。
ある時など、朝ケージから出したトコの姿が見えないと思ったら、おっちゃんの家の玄関の前に座り込んで、おっちゃんが出てくるのを待っていた。
ある時はおばちゃんが手入れをしているお花畑へ入り、愛想を振りまいていた。
おっちゃんもおばちゃんもトコを可愛がって、野菜くずを与えてくれたり、「この子可愛いね」「畑の仕事手伝ってくれてるよ」と優しく受け入れてくれていた。
そして「イタチやキツネに襲われないように気をつけてあげて」と言ってくれていたのだった。

もしイタチがトコを襲ったのだとしたら、果たして自分の体より大きいトコを咥えて逃げられるのだろうか?
もしその場で襲っていたとしたら、異変を感じてすぐに飛び出した夫が見つけているはずだ。
なにより、トコが暴れていたら毛が抜けたり、足跡がついているはずなのに、手掛かりが見つからない。
大工さんは14:30頃にもトコの姿を近くで見ていたという。

ほんの一瞬の間に起きた出来事が信じられなかった。

トコのこれまでの生活は、明るくなると家の周りを自由に歩き、虫を食べたり草をついばんだりしていた。
17:00を告げるサイレンが鳴り、辺りが暗くなると、トコは自分で物置小屋の寝床へ入っていた。
器用に工具棚の上にあがり、小さな段ボール箱の上に座って眠るのだ。
ニワトリは本能的に高いところに上がり、身を守る習性があるらしい。
トコが寝床についた姿を確認して、私たちは物置小屋の扉を閉めていた。


けれど、その日は日が暮れてもトコが帰って来なかった。


18:30。
習い事のお迎えに行っていた夫と子ども達が帰宅した。
私は、大事な話があるから来てと言って、何も知らない子ども達を居間に集めた。
「え、なに?怒られんの?」と茶化したり、ソワソワしていた子ども達だったが、事の顛末を聞かされると、火がついたように号泣し始めた。

最初はただひたすら泣き叫ぶだけだったが、そのうち想いが溢れ出してきた。

「うそや」
「いやや」
「なんでなん?」
「なんでトコが?」
「イタチむかつく」
「もう抱っこできひんの?」
「あの可愛い声聞けへんの?」
「もう肩に乗ってくれへんの?」
「まだうちにきて1年もたってへんのに?」
「もっとトコといっぱい遊びたかった」
「トコといろんなとこに行きたかった」

大声を張り上げる妹たちと違って、床に突っ伏して静かに嗚咽していた長女が言った。

「私のせいや。私が朝トコを起こした時にちゃんと安全な場所に連れていかへんかったからや」

家の中に入れておけばよかったと長女が言うが、それではトコは自由に動けないし、現実的ではない。
金網を破ってまで家畜を襲うこともあると言われているイタチのことだ、一体どこなら安全だったのだろう?
昼間にイタチの姿は一度も見たことがなかったし、人間の気配がすぐそばにあるところで襲われることは想定していなかった。

「それは違う、トコは朝も昼もいつもの場所にいて、大工さんの近くにもいて、いつも通り過ごしてた」

夫がフォローしたところで、トコが帰って来ないことに変わりはなく、悲しみは深くなる一方だった。

「お隣は探したん?」
「探した」
「裏山は?」
「探した」
「縁の下も?」
「探した」
「蔵の前の庭も?」
「うん、何回も」

イタチの足跡を追って、あらゆるところを探したことを伝えた。
そして私も夫も、可能性のあるところを全て調べつくしたつもりだった。

長女が尋ねた。

「反対側のお隣は?」

それは方角でいうと北側で、よく抜けだす南側と違い、トコが一度も行ったことのないはずの方向だった。

「そっちは探してないけど…空き家もあるし、車も通っていて危ないし、なによりトコが行ったことがないはずの道やから違うと思う」

「私、探してくる!」

そう言って立ちあがった長女よりも先に、私は長靴を履いて玄関を飛び出していた。
スマホの懐中電灯アプリを起動して時計を見ると、既に19:30を過ぎていた。
暗くて動けないだけかもしれない。
まだ探していない場所で名前を呼べば返事が聞こえるかもしれない。
希望が湧いてきた。

「トコー!トコー!」

真っ暗な町内に子ども達の声が響き渡る。
私はスマホのライトで北側に伸びる歩道を照らしながら慎重に歩く。
夫は懐中電灯を持って後に続いた。
歩道に残る雪を慎重に観察するが、イタチらしき足跡も、トコの足跡もついていなかった。
近所の空き家の周りも調べたが、一帯は雪の表面がなだらかで、人も獣も出入りがないことを示していた。

「やっぱりこっちじゃないのかも」

と、引き返し始めた時だった。
三女の大きな声がこだました。

「トコの羽や!!!!」

白と黒が入り交じる特徴的な模様の羽が、縁石に落ちていた。
トコのものに間違いないと確信すると同時に、大きな不安が押し寄せてきた。
車が危険だということを分かっているトコは、近くを車が走るこの道を歩いたことがなかった。
つまり、この羽は過去のものではない。今日のものだ。
既にパンパンに腫れている目頭がまた、熱く痛くなってきた。

車道に降り、歩道と車道の境目となる路肩部分を丁寧に探していくと、次から次へと羽が見つかった。

「またあった」
「こんなに大きな羽も」
「これ尻尾のとこや」

一枚また一枚と拾うごとに、絶望が一層大きくなっていった。

「こんなんあった」

ふと夫が駆け寄り、私にだけこっそりあるものを見せに来た。
それは数枚の黒い羽がついたままの、赤い肉片だった。

「何があったん?見せて」と子ども達も覗きこむ。
私達は車道にいたまま、これまでにないくらい大きな声を張り上げて泣き叫んだ。

トコが襲われたことは決定的だった。
暗闇の中、これ以上トコの足取りを追うことはできない。

「帰ろう、お墓作ろう」

そう言って、羽を拾いながら家へ引き返した。

トコが好きでよく歩いていた庭。
そこの一番景色が良くて、日当たりの良い場所にスコップで穴を掘り、そこへ一人づつ拾った羽を入れた。
最後に夫が肉片を入れ、一人づつスコップで土をかけた。

私は思い付き、家の中から油性ペンを持ち出し、トコのエサ入れの近くに置いていた石に『トコありがとう』と書いた。

「これ、墓石」

トコの一部を埋めた場所の上にその石を置き、皆で手を合わせた。

守ってあげれなくてごめん。
探してあげれなくてごめん。
もっと一緒にいたかった。
もっと相手してあげたらよかった。
うちに来てくれてありがとう。
家族になってくれてありがとう。
一緒にいてくれてありがとう。
今までほんまにほんまにありがとう。

子ども達の目からはたくさんの涙が、口からはたくさんの謝罪と後悔と感謝が溢れていた。

長い間祈りを捧げた後、家の中に入り、私はある儀式を提案した。

「これ、最後にトコが産んだ卵。トコの一部。これをみんなで食べよう。トコの体でできたものが、私たちの血や肉になって体を作ってくれる。トコと自分が一緒になろう」

卵を割り、一人づつ順番に箸でかき混ぜた。
茶碗にご飯をよそい、卵を入れるための穴を空ける。

「こうするとご飯が丸くなるやん、これは縁(円)。トコと出会えたことに感謝して、生まれ変わってもまたトコに会えますようにと願いをこめるねん」

そこへ卵液を流し込み、ご飯と混ぜ、醤油をたらした。

「いただきます」

命をいただくという語源をこの時ほど強く意識したことはなかった。
皆、しっかりと手を合わせ、無言で一口また一口と、ゆっくりと噛みしめた。

「…おいしい」
「おいしいな」

トコの産んだ卵でつくる卵かけご飯は、世界一美味しい。
黄金の液体をまとったお米の一粒一粒が全身に沁み渡るようだった。
涙がどんどん溢れて上手く食べられなかった。

時間をかけて食べ終わった次女が「トコの写真見たい」と私のスマホを開いた。
画面の中のつぶらな瞳をした愛らしい姿を一目見ただけで、溢れる涙を抑えられなかった。

「…いつも学校で嫌なことがあったらトコに慰めてもらってたのにもうできひん」

そういえば、我が家で一番トコと遊び、世話をしていたのが次女だった。
環境の変化が苦手で、転校を嫌がり、なかなか新しい学校に馴染めなかった次女だが、トコを迎えてからは「引っ越して良かった」と前向きになれたのだった。

思い出を語り始めたらきりがない。
タラレバの後悔を言い出してもきりがない。
でも思い出を存分に語れるほど長く一緒に過ごしたわけでもない。
後悔をいくら重ねても、あの愛しい温もりを抱きしめることはできない。

誰にでも愛想が良くて、人懐っこくて、穏やかで、優しくて、たくさんの笑顔と元気をくれたトコ。
約半年という短い間だったけれども、黒田暮らしを鮮やかに彩ってくれたトコは、私たちにとって大きな大きな存在だった。

「これからは私らの中にトコがいる。私らが悲しんだままやとトコも悲しいままや。ずっと悲しんでるばかりやなくて、悲しみを乗り越えて私らは幸せにならなあかん。それから、トコみたいな家で飼われている動物が野生動物に襲われるような悲しいことは減らしていかなあかん。人間とペットと家畜と野生動物と自然が、どうやったら共生できるか、黒田みたいな山間地でもバランスをとって暮らせるかを考えていかなあかん。それがトコへの償いや」

全国規模で問題となっている獣害。
イノシシやシカによる被害だけでなく、イタチ・テン・ハクビシンなどの被害も多い。
外来種であるアライグマは本来日本に生息していないのに、アニメの影響で人間がペットとして飼い始めたものが逃がされて激増している。
どうすればトコは襲われなかったんだろう。
イタチだって本来夜行性なのにわざわざ昼間に人の近くまで来なければならなかった理由があったのだろうか。
かつて食物連鎖の頂上にいたオオカミが絶滅し、生態系が崩れ、イタチのエサとなるものが山になくなったのだろうか。
人間は生態系にどんな影響を及ぼしてきたのだろうか。

私たちはトコを守るのに、知らないことが多すぎた。
ちゃんと知っていれば守れたかもしれない。
自然のこと、生き物のこと、世の中のこと…学ばなければ大切なものが守れない。

(全くそんなことはないのだが、)自分のせいでトコが襲われたのだと、自分を責め続け、ごめんごめんと謝り続けていた長女の気も落ち着いてきたようで、「私、勉強する」と、机に向かい出した。

トコが身をもって教えてくれたことを、感じ取らなければならない。
この悲しみから、何かを産み出さなければならない。
この辛く苦しい経験を糧にしなければならない。

「私、思ったんやけど、」

いつもより綺麗にノートを書いていた長女が口を開いた。

「トコ、今まで行ったことのない方向に行ったやろ。それって、探してほしくなかったんちゃう?襲われた姿を見られたくなかったんちゃう?」

猫は死期を自覚して飼い主の前から去るという。
もしかしたらトコは私達に変わり果てた姿を見せまいと、咄嗟の判断で姿をくらましたのかもしれない。
トコの気持ちを推し量る術はないけれど、トコは本当に賢いニワトリだから、きっとそうだと思った。

「ほんまやな、お母さんもそう思う」
「トコって、最後の最後までほんまに優しいな」
「朝になったらトコを探しに行こうって言うてたけど、辞めよか」
「うん」
「トコの骨や羽が残っても、いつか黒田の土に還るやろ。その土の上で私らが暮らせる。その土が田んぼや畑にも流れてきたら、そこで育った野菜やお米が食べられる。トコの命が口に入って私らの一部になってくれる。それでええやん」

私は泣き疲れて眠った次女と三女の頭を順に撫でたあと、長女と抱きしめ合い、決意した。

「幸せになろな。トコと一緒に幸せになろな」

*****

翌朝から、子ども達は朝一番にトコのお墓へ行って手を合わせるようになった。
学校の行き帰りや、お出かけの前後にもトコのお墓参りを欠かさない。
そして、以前していたのと同じように、「トコ、大好きだよ」と言いながら墓石を撫でる。

トコ、本当にありがとう。
黒田の田園風景がとっても綺麗に見える場所で、ずっとずっと私たちを見守っていてね。

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